LOGIN翌日の空は重く、雪は細かな針のように降っていた。
緋宮は洞の外に立ち、湖の方角ではなく、遠い北の山脈を見つめていた。
瑞礼は火床のそばで薪を割りながら、何度も緋宮の背へ視線を送った。
太鼓の余韻がまだ耳の奥にこびりついている。中臣国子が去ってからも、瑞礼の胸はずっと冷えたままだった。
「……緋宮様」
雪に吸われそうな声で呼びかける。
「どうなさるおつもりなのですか」
緋宮は答えなかった。金紅の睫に積もった雪がかすかに揺れ、溶けては落ちる。
風が一度強く吹き、遠い谷底から、鈴のような音がまた響いた。瑞礼の胸に嫌なざわめきが走る。
――罠だ。<
国子は深く頭を垂れ、それからこちらを見下ろした。「皇女は、まだあなた様のお力をお待ちです。今のまま、そう長くはもたせられません。 風と水を静めていただければ、北の里々を巻き込まずに、この騒ぎを抑えられるでしょう」 一呼吸おいて、穏やかな口調のまま言葉を重ねる。「ですが、もしお力をお借りできないとなれば……手立ては、他にもございます。人の世の理とは、時に神の慈悲よりも無残に、泥を啜るような真似も厭わぬものですから」 瑞礼の背筋を、見えない氷柱が撫で上げた。穏やかな声音の裏に、「里を楯に取る」という冷酷な刃が、鞘走る音もなく突きつけられている。 緋宮はゆっくりと息を吸った。その肩から雪がぱらぱらと落ちる。「……わかった」 その一言に、瑞礼の心臓が強く跳ねる。「ひと月だ。それを限りに、俺はお前たちの掲げる理に、力を貸してやろう」 国子の背後で、兵たちの間にほのかなざわめきが走る。国子自身はその気配を背に受けながらも、表情を崩さなかった。「ご決断、感謝いたします」「だが条件がある」 緋宮の声が、それを遮った。国子の瞳がわずかに細まる。「条件……ですか」 緋宮は、横に立つ瑞礼の肩へと視線を落とした。 瑞礼は息を呑む。凍えた空気が喉を刺した。「この男の身の安全を、必ず守れ」 その言葉は、雪よりも鋭く空を切った。「里にも、ここにも、二度と手を出すな。こやつを害せば、その時は人の理もろとも、この国を噛み砕く」 国子はしばし黙した。崖の上で風が翻り、彼の衣の裾を揺らす。「……なるほど」 やがて、小さく笑みを含んだ声が落ちてきた。「龍神が人の身を案じられるとは、思いもしませんでした」「返答になっていないぞ」 緋宮が低く言う。金紅の瞳が、遠い崖上の男を射抜いた。 国子はひとつ息を吐いた。「わかり
国子が告げた、月の満ちるころ。 洞の天蓋から覗く白光が淡く滲み、夜のうちに何度も途切れながら続いた太鼓の音は、いまは山肌を這うように低く鳴っていた。 白み始めた空の下で、瑞礼はほとんど眠れぬまま火床の灰をいじっていた。炭はすでに熾きも残さず、冷えた灰だけが指先にまとわりつく。 灰をつまんでは落とし、またすくう。そのたびに、幼いころの囲炉裏の赤が脳裏をかすめた。瑞白が火箸を握り、笑いながら炭を整えていた手つき。あの赤い火は、ここにはない。 外では風が早くなっている。崖の向こうから、金属の軋みと、馬の鼻息を含んだざわめきが、雪に吸われながら近づいてきた。 その音に顔を上げると、緋宮が先に立ち上がり、湖の方へと歩き出していた。その背を慌てて追いかける。銀の髪には細い雪が降り積もり、その肩は薄く白く縁取られている。それでも背筋はまっすぐに空へ向かっていた。 歩みのたびに、氷の下の水がかすかに鳴る。足元から立ちのぼる冷気が、脛を伝って胸へと這い上がってくるようだった。
翌日の空は重く、雪は細かな針のように降っていた。 緋宮は洞の外に立ち、湖の方角ではなく、遠い北の山脈を見つめていた。 瑞礼は火床のそばで薪を割りながら、何度も緋宮の背へ視線を送った。 太鼓の余韻がまだ耳の奥にこびりついている。中臣国子が去ってからも、瑞礼の胸はずっと冷えたままだった。「……緋宮様」 雪に吸われそうな声で呼びかける。「どうなさるおつもりなのですか」 緋宮は答えなかった。金紅の睫に積もった雪がかすかに揺れ、溶けては落ちる。 風が一度強く吹き、遠い谷底から、鈴のような音がまた響いた。瑞礼の胸に嫌なざわめきが走る。――罠だ。
数日ののちの朝、風は言葉を運んできた。雪は薄く、雲は低い。湖の遙か上方から、太鼓のようなかすかな音が降りてくる。 瑞礼が顔を上げると、崖縁に人影が並んでいた。黒と緋の衣、金の紐。馬の鼻息が白く散り、革の具足が雪を噛む音がする。 先頭の男が一歩進み出る。年は若い。けれど、足取りに迷いはない。「――御影山の主に申し上げる」 澄んだ声が、雪明りの下に伸びた。「中臣国子。御影に眠る龍神よ! 皇女の勅を奉じ、ここにまかり来た」 瑞礼の背後に緋宮の気配を感じ、振り返る。 緋宮はそのまま湖の縁に歩んだ。銀の髪に雪が降り積もっても、冷えを煩う気配はない。ただ、金紅の瞳が淡く光を宿し、上の人影を静かに見ていた。「……俺に何の用だ」
春はまだ遠く、風は氷を孕んでいた。薄い雪は途切れることなく落ちつづけ、それでも季節の理からすれば、そろそろ止んでいてよいころだった。 だが、今年の淵は違っていた。夜毎、風が鳴り、氷が裂け、人が落ちてくる。 最初はひと月にひとり。 けれど次第に間隔は縮まり、今では十日と空かぬうちに水の音がする。湖面の割れ目から浮かぶ身体は、瑞礼には見慣れぬ衣を纏っている者もいた。 蝦夷の民の刺繍でも、山の里の織でもない。絹の裾、金の紐、そして指には玉の輪。 瑞礼は震える指でその輪を外し、手のひらに載せた。薄曇りの光の下で、それは鈍く青を返していた。「……知らない匂いだ。蝦夷の者じゃない」 独りごとのように呟いた声が、白い息に溶けた。目を伏せて、そっとまぶたを閉じてやる。 ――だが、その手を制したのは、緋宮の声だった。「やめろ」
朝は静かだった。外では雪が降りつづき、白い光が洞の奥へと淡く流れ込んでいる。火床には灰が冷え、昨夜の焔の名残りが細く煙を立てていた。 瑞礼はその傍らで目を閉じていた。外套を肩まで引き寄せ、昨夜の余韻を噛み締めていた。頬には火のぬくもりがまだ残っているようだった。 肌の奥にもかすかな熱が残っていた。それは火の熱でもなく、眠りの残滓でもない。触れられた瞬間に跳ね上がった鼓動だけが、いまも胸の奥で静かに燃えている気がした。 緋宮は対面に腰を下ろしたまま、動かなかった。指先で灰の上をなぞりながら、ぼんやりと煙の筋を見つめていた。その表情はいつもの静けさを保ちながらも、どこか落ち着かない。 灰の下にはまだ小さな赤が潜んでいる。洞の息が触れるたび、その光がわずかに明滅する。瑞礼はその揺らぎに、しばし目を留める。 やがて、緋宮がふと、小さく息を漏らした。「……人の熱というのは、こうも長く、灰の底に残り続けるものなのだな」 昨夜のことを思い返すような声音だった。だが瑞礼はその言葉を聞き逃さなかった。ゆっくりとまぶたを開き、寝返りを打つ。